私たちは「地球のお医者さん」です。
ジェンティは、「その人がその人らしく」を応援しています。 ジェンティに関わることで、誰もが自分らしく、 美と健康と生き方を通しての「幸せ」はもちろん、 「仕事」を通しての「成功と幸せ」も、いっぱい味わっていただきたいと想います。 そのために、今は思いっきり準備をしております^^ 共鳴していただける方は共に、 人と地球に優しい、本当の意味での「幸せと成功」を共に歩みましょう。
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日記:817
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2015年10月14日
仕事の定義、それは「意志」です。
意志があるところに、仕事があります。
だからこそ、私たちは働くことが仕事です。
働くとは、「傍を楽にする」ということです。
子どもは、遊ぶ中に意志があります。
だからこそ、幼い頃は精一杯に遊ぶことが仕事です。
学生は、学ぶことの中に意志があり、それが仕事です。
そこに意志がなければ、遊んでいても、学んでいても、働いていても、仕事ではありません。
働いていても、労働と、職業と、生業と、仕事には、大きな差があります。

「意志」とは、何でしょうか?
意は、発信源であり、志は、向かう行き先です。
スタートがあって、ゴールがある。
だからこそ、私たちは仕事に夢を見ることができて、生き甲斐を感じることができるのです。
ゴールのないマラソンほど、つらいものはありません。
刑罰でも、穴をただ掘らせて、それを埋めさせて、また掘らせるというものが、受刑者にとっては最もつらいと聞いたことがあります。

意志があるからこそ、目的が生まれ、生き甲斐が育ちます。
生き甲斐があるからこそ、満足感があり、仕事の中に幸福を感じるのです。
幸福を感じるからこそ、人は誰かの幸福を応援したくなります。

そんなふうに、毎日の仕事を感じることができましたら幸せですね。
例えば、毎日の日向ぼっこやお散歩でも、意志があるのならばそれもまた仕事です。
眠っていても、食べていても、ただひたすらに海を眺めている時間でも…


















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2015年10月13日
「怒り」が、争いを生み出しているわけではありません。
例えば、赤ちゃんがお腹がすいているのに、お母さんが気付かないでいます。
おっぱいが欲しくて、泣くとします。
この時、怒りは必要です。
私たち大人であっても、理不尽なことが目の前に起きた時に怒りが湧いてくるのは必然ですよね。

怒りの反対は、「受容」です。
すべてを受け入れるだけが、人生の醍醐味ではありませんから。
時には、怒りも役に立ちます。
怒りがあるから、私たちは学んだり、成長しようとしたり、そんなこともあります。
「怒り」は、行動を促進させるために必要な後方支援です。
怒りがあるから、言えないことを言えたり、
臆病であっても立ち向かえたり、
長い距離を走れたり、重いものを持ち上げたり、
分厚い本を読めるようになったり、
困難な関門を乗り越えることも、時にはあるはずです。
健全な怒りって、美しいんですよね。

争いは、「自己否定」の感情から起こります。
自分を否定するがあまりに、それから逃れようとして誰かを否定します。
誰かを否定するために、誰かと誰かを争わせようとします。
個人間では、仲間外れとか、噂話とかもそうですね。
国家間では、戦争を生み出します。
今の戦争で、個人間や国家間で、当事者同士が問題を起こしているものはほとんどありません。
人は、自己否定の気持ちがあるから、人を支配したがるのです。
自己否定の反対は、「愛」です。

「愛」⇔「自己否定」
「怒り」⇔「受容」

愛のある自己否定はあり得ませんが、愛のある怒りは美しいものです。
今の時代、愛のある怒りが必要な気がしています。













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2015年10月06日
生かされて、生きてきた。
生かされて、生きている。
生かされて、生きてゆく。

生きてゆくと、言葉を想うだけで、エネルギーが湧いてきます。
それはまるで、自然界にある色々な命らと、共感をしているような感覚です。
この世界にあるものは、みんな、絶えず動いています。
ゆく川の流れは絶えずして、また、もとの水にあらず。
それは、私たちの生きている時の流れも同じです。
水たまりなどで、滞っている水は腐り始めるが、流れる川の水には淀みがありません。
私たちも、できればそうありたいものですね。

生きているということは、今を、生きているということです。
生きてゆくということは、今生を、生きてゆくということです。
それは、過去も未来も今も、すべてを同時に生きてゆくということです。
私たちは、個ではなく、和であります。

生きている、より、生きてゆく。
学んでいる、より、学んでゆく。
働いている、より、働いてゆく。
一語を変えるだけで、何だか、楽しくなってきます。













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2015年09月30日
春の匂いは、咲き誇る花の香り。
初夏の匂いは、生い茂る草の香り。
秋の匂いは、芳醇な実りの香り。
冬の匂いは、凛とした土と空気の香り。
どの季節も、豊かな命がそこに宿っていて、美しい景色が広がります。

花に香りがあるのなら、種にも香りが有るのだろうと、小学生の頃に朝顔の種を剥いてみました。
すると、かすかな樹液のような匂いがするだけ。
あの花の甘い香りはありません。
ふと、心も同じだなって、その時に想いました。
花の香りは、花粉を蒔くために、生き物たちと共存するもの。
人の言葉や表情は、まるで花のよう。
そうそう、「言葉」の語源も、言の花です。
美しく、共に調和をはかるもの。
その言葉の奥には、その人だけの、心の香りがあります。
それは、無言でも、言葉多きでも、同じように伝わります。
だとしたら、やわらかい香りでいたい。

そして、ほのかな香りを感じられる人でいたいものですね。
2015年09月28日
沈む夕陽のオレンジに 群れをなす渡り鳥
はるか遠くのあの空は あなたにも見えていますか
駅からの帰り 道の傍には曼珠沙華
あなたのようでした あなたの笑顔のようでした

秋が深まると想い出す あなたと歩いた公園
赤く微笑む曼珠沙華 二人を祝福してくれた
ラジオに流れる相撲中継 あなたは好きでしたね
若乃花は勝ちましたよ 大相撲でしたよ

この詩は、高校時代の友人が授業中に書いていたものです。
きっと、亡くなった好きな人を想い出す、一人の女性の心。
70年代のフォークソングのような感じですね。

今朝、ランニングをしていたら道端に曼珠沙華。
赤く微笑むその花を見ていたら22年前を想い出しました。
汗を流すこと、感性を磨くこと。
そんなことばかりに、情熱を注いでいました。
今は、学生服がスーツになって、自転車が自動車や新幹線になっただけのこと。
結局、人はあんまり変わらないんですよね。
言い換えれば、どんなに幼くても、もう大人と同じようにいろんなことを考えているということです。

皆、大人で子供…。
子供で大人…。








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2015年09月03日
今日は、所要で法務局に行きました。
待ち時間に流れていたテレビ番組に、とても心が打たれましたのでご紹介をさせていただきます。
「難病を乗り越えて、会社を立ち上げた方々」の特集です。
彼は、妊娠10か月の頃に難病とわかり、生まれてきても5歳から10歳までしか生きられないだろうと言われたそうです。
脊椎性筋萎縮障害というものだったそうです。
そして、家族の献身的な支えの中で、今は23歳までなりました。
彼が19歳の時に、会社を立ち上げました。
パソコンを使っての、ホームページつくりや、名刺の作成などの会社です。
最初は、給料は1万円ほどだったそうです。
口コミによって、今では全国に広がりました。
今では、25万円ほどを稼げる月もあるそうです。

彼が動かせるのは、右手の親指を1センチほど、左手の親指を数ミリです。
それでも、マウスを動かしながら、多くの作品を作成していきます。
お母さんは、朝起きると、彼の横になるポジショニングと、パソコンの位置関係を設定することが仕事と言います。
親子の二人三脚で、ここまで歩いてきて、今では「21世紀の未来を創造するベンチャー」のトップランナーとして、注目を浴びています。

彼には、デザインを担当する仲間もいます。
彼も、生まれながらの難病患者でした。
幼少期には、学校に行きたくないと引きこもりがちになり、家族は荒れていたそうです。
そんな時に、お母さんは病気にもなってしまい、やがて気付いたと言います。
「先のことを考えて悩むよりも、今を笑って過ごそう。」
それから、家族は生まれ変わったそうです。
笑いの絶えない日々を送るようになり、お子さんは力強く成長していかれたと言います。

彼らは言います。
「感謝をするだけではなく、恩返しをしたい。」

1万円の給料を4か月貯めて、お母さんに時計を買ったそうです。
そのことをコメントしている時のお母さんのお顔は、とても幸せそうでした。

感謝をする素晴らしさ、そしてその先にある恩返しをする素晴らしさを、教えられたように思います。
















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2015年08月26日
仕事の帰り道、車を運転しながら懐かしい曲を聴いたりします。
音楽の良いところは、メロディーと共に流れる歌詞にあると思っています。
言葉から膨らむ世界は、曲と一緒に心を揺さぶります。
思い返せば、僕も学生の頃は詩人になりたいと思っていました。
授業中とか、仲間と共に詩を書き合っていて、放課後にお互いのを読んだりしていました。
あの頃の仲間は、優しさに気付くこととか、悲しみに繊細でいられることとか、そんなことを高め合うような会話ばっかしていました。

詩を描くということは、日々を詩のように生きるということです。
何気ない風景や出来事を、水のように透明に受け止めて、そこから広がる世界を文字に乗せていくということです。

そして今、振り返ってみると、僕は同じことをしています。
商品をつくるということは、詩を書くことに似ています。
石や水、その配合や組み合わせ、デザインや形状、それによってメッセージが生まれます。
使ってくださる方の心と体に、どう響くのかをいつも考えています。
今、最高にお伝えしたいものが、パウダーです。
浮船先生が開発して下さった“BBパウダー”を基に、色々なものをブレンドすると働きが変わります。
働きが変わるので、あらゆるお悩みに対してお伝えするものが変わってきます。
この方には、こんなものを…
あの症状には、あんなものを…
一つ一つ考えていると、他のことが手につかないほどです。
だから、日記を書くのもたまにになってしまいます。
日記を書くのもメッセージですが、商品を創るのも同じようにメッセージなんです。

生きている限り、時は流れていきます。
時が流れているのなら、確実に積み重なることをしていきたい。
それは、ただ個人である前に、地球とか、人類とか、もっと大きなものに役立つことを積み重ねていきたい。
そのメッセージを込めて、ジェンティは商品をお届けしていきたいと思っています。

気になるカ所に塗っていただければ、痛みや悩みの原因が消えていく…。
化粧仕上げの、パウダーファンデーションにもなる。
毎日使っていると、何だか体が軽く、いつも元気。
何かに混ぜて使うこともできる。
そして、流れる排水が地球の環境をきれいにする。
今、そんなパウダーをお届けしたいと創作活動をしています!










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2015年08月14日
明日は、終戦記念日です。
太平洋戦争の終結から、今年は70年を迎えます。
今から五年前、戦争を振り返るという意味で、一つのドラマが放映されました。
タイトルは、『歸國(きこく)』。
ビートたけし、長淵剛、小栗旬、向井理らが出演し、その他そうそうたる顔ぶれが脇を固めます。
僕は、このドラマを観ていません。
観ていないから、イメージだけでメッセージを膨らませてしまう。
映画とか、一枚の絵画とか、内容を知らないからこそ、想像だけで感動することってありませんか?

終戦記念日の深夜、東京駅にダイヤには無い軍用列車がやってきます。
それは、60余年前に南海で散った英霊たちを乗せた列車でした。
彼らの使命は、平和になった日本の現状を南海に眠る戦死者の霊に伝えること。
彼らは、夜明けまでのわずかな時間、今の日本を見て、様々なことを感じていきます。

命をはり、日本の平和と、日本国民の幸せを願い、彼らは惜しむことなく南海で散っていった。
そして今、日本は平和になっています。
しかし、その平和は、彼らが望んだ形でしょうか?
若者は、今の楽しみの為だけに生きている。
ボタン一つで富を得るもの、すべてを失うものもいます。
親は子を捨て、子が親に暴力を振るい、年寄りを敬うこともない世の中。
誰かや何かのために生きることが、まるで罪悪のようにとらえられる。
それらは、彼らの望んでいた「幸せ」の形でしょうか。

「平和」にはなったけど、「幸せ」には遠い。
「幸せ」になるためには、成功を求めるがゆえに「平和」ではない生き方をする。
または、誰かの「平和」を奪うことでもする。

僕の知っている方々は、人生の達人が多い。
何も無くても幸せで、今を生きている日々を心から喜んでいます。
何で、彼らは幸せなのでしょうか?
「役割をまっとうしているから。」です。
親は親らしく、子は子らしく。
男は男らしく、女は女らしく。
何よりも、その人がその人らしく。

チェ・ゲバラは、「趣味は革命」と言ったが、彼はそこに自分の役割を見出していました。
戦争はもちろん、あってはいけないことです。
戦争を望む人たちの心理は、その中に自分たちの役割を投影できるからです。
私たちは人間ですから、そこに役割を見出す必要はありません。
戦争では、人間は「人間を殺すマシーン」になるということです。
そんなことは、あってはいけません。
でも今の社会、勝ち組や負け組という言葉があるように、人間は「人間を踏み台にして生きていくマシーン」になっています。

私たちの本当の役割は、「誰かや何かのためにできること」をまっとうすることです。










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2015年07月24日
今朝、久しぶりに近くにある公園を走りました。
陽射しに透けて、木々の緑が硝子のように輝きます。
セミの声、白い雲、パールブルーの空、夏の朝はいつもこんな感じです。
僕は、本当はこうやって、何気ない一日をただ生きることが好きなんだと思います。
朝は走って、汗を洗い流してゆっくり湯船につかり、昼は料理をしてふるまい、午後は仕事をする。
夕方には一日を振り返り、夜は日記を書く。
早く寝て、日が昇る前に目を覚ます。

そんな生き方が理想で、学生時代や若い頃は、そうやって多くの日を過ごしていました。
そんなことを、今日は思い出しました。
最近は、追われるような日々の中で、季節を見ることも忘れていたのですから。

季節は、とても美しいんです。
それを見るためだけに生きたとしても、それはとても素晴らしい生き方です。
夏の間は、木々の緑や空の青に包まれているだけで、最高のロケーションです。
秋になれば、少しの肌寒さと、夕焼けや茶色に染まる葉木に、また美しさを感じることができます。
冬になれば、灰色の空と、凛とした空気、夜が更けるのが早いから、温かいシチューが恋しくなる。
それはそれで、なんだか楽しい。
春になれば、いつもの公園は桜色に染まり、これから何かが始まりそうなワクワクを、胸に抱かせてくれます。

好きな季節があるというよりも、好奇心があればどんな一日も楽しくなります。
それは、すべての一日の中に、季節の美しさを感じれるということです。
例えば、砂漠の国に行った時も、そこで暮らす彼らは「砂は美しい。」とか、「ベリーナイス、シー(海)。」とか言っていた。
そこで生まれたことを喜び、そこで見る景色を愛していました。
きっと、エスキモーからすれば、氷に包まれた自分たちの生活の中に、大地の美しさや暮らしの喜びを感じているでしょう。

どこで生まれても、どこで暮らしていても、世界はいつも美しいんです。
だから、世界は必ず平和になります。













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2015年06月22日
病気には、「原因」と「症状」という2つのことが言われています。
原因があって、はじめて症状があります。
例えば風邪、熱が出る、鼻水が出る、咳が出るということは症状です。
それは体内に溜まっている毒素を、熱によって燃やして、鼻水によって洗い流して、咳によって払おうとする行為です。
症状は、今の現状をより良くするために起こるという、浄化現象に過ぎません。
体内に溜まっている毒素が原因であって、症状はそれを改善するために表面に出ているのです。

では、花粉症の原因は何でしょうか?
花粉は・・・要因です。
要因とは、引き金のことです。
花粉が入ってきても、体内に毒素が溜まっていない人は花粉症になりません。
花粉症にとっての花粉、アレルギーにとってのアレルゲン、ガンにとっての発ガン物質も、すべては要因であって、原因は心と体にあります。

この、原因と要因の違いについて、理解しておくことも大事なことですね。
今の医学では、要因だけを抑えようとしていることがほとんどです。
要因のさらに奥にあるモノは、心と体です。
そして、心と体のさらに奥底にあるモノは、見えない波動的なもののかかわりもあります。
人間関係や、仕事の在り方や、毎日の行いや言動、それらがどう影響を与えているかです。

そう考えると、一つの病気をとってみたとしても、奥が深いものですね。
僕の今の目標は、それら全てを通して、あらゆる病気の根本からの解消をしていけることです。

病気を通して、人生が今よりも良くなるための気付きを、客観的に科学的に見極めていきたいと思っています。
科学とは、「再現性があるということ」です。
目に見えないことであっても、何度やっても、誰がやっても同じ答えが出るのならば科学です。

そうして、病だけでなく、戦争や公害でさえも、根本からの解消をしていけたらと思っています。








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2015年06月10日
♪熱が出たりすると、気付くんだ。
僕には体があるってことを。
鼻が出たりすると、気付くんだ。
今まで呼吸をしていたことを。♪
バンプオブチキンの「スーパーノバ」という歌の歌詞の出だしです。
大事なものを失うと気付くのだとしたら、今のうちから気付かなきゃ。
そう思わせてくれるような歌です。

風邪をひくと、熱が出ます、鼻水が出ます、咳が出ます。
すべて、体の中のいらないものを掃除するために起こる必然です。
いらないものを熱で燃やし、鼻水で洗い、咳で払おうとします。
だから、風邪を引いた後、自然に治ってみると、体は前よりも軽くなっています。
まるで、台風が過ぎ去ったあとの澄んだ空気「台風一過」と同じです。

病気には、二種類あります。
「自然本来のモノ」
「人間が作り出したモノ」

自然本来の病気は、意味があっておこるもので、症状が引いた後には前よりも体が良くなっているものです。
神様からの「恵み」でもあります。
公害やストレスなどから来る、人間が作り出した病気は、我々が今を改善するためにある「学び」でもあります。
そこから今を振り返り、人類が成長する機会でもあります。
病気が、「恵み」と「学び」であるということは、不必要な病気は無いということですね。
ただし、学びがあるのに見て見ぬふりをするのであれば、私たちは無責任を後世に先延ばしするということです。

風邪をひくと、自分を振り返ることができます。
だから、風邪をひくことを僕は大事にしています。
今日もほら、声も出ないし、体中が熱いんです。
頭がぼーっとして、節々が痛い。
だからこそ気付けることに、この時間を大切に過ごしたいと思うんです。

世界を見渡せば、公害、戦争、貧富の格差、様々な模様があります。
人類が今、風邪をひいているんだとしたら、生き方、社会の在り方を今、振り返ってみましょう。

















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2015年06月04日
5月30~31日、私たちは今年三回目の善光寺ツアーに行ってまいりました。
今回は、北は青森県から南は愛媛県まで、総勢で70名の方々がご参加されました。
三回における参加者の合計は、154名でした。
今年も、多くの皆さま方に「御供養、御祈願」の御縁を結ばせていただくことができまして、心より感謝しております。

7年に一度と言われる御開帳ですが、今年は55日間で700万人がご参加されたといわれています。
境内の「回向柱」に触れるのに、最終日は2時間半待ちというほどの行列ができていたほどです。
その中で、境内から本堂に入り、さらにその先の内陣に入る方は、たった数%です。
さらにその先の、内々陣にまで入る方は、1%未満です。
そして、さらにその中でも「大法要」の御縁が結ばれる方は、700万人の中でもたった数百人だけです。
有難いことに、ジェンティの御参加者は皆さまそれをいただくことができました。
大法要の御縁は、「阿弥陀如来」「観音菩薩」「勢至菩薩」に間近で触れて、御供養と御祈願を承っていただくということです。
それにより、先祖供養をはじめ、御縁のある皆さまの御供養ができるということです。
私は、今年からは無縁の方の御供養もさせていただくことに致しました。

仏教の教えでは、「因果応報」という言葉があります。
私が犯した罪が、私にかえってくることを「因果」と言います。
逆に、私が努力をして成功したことも「因果」です。
しかし、私が努力をして成功したとしても誰かが傷ついている、これが「報」です。
私が何かのきっかけを与えて、それによって誰かが誰かを傷つけてしまった。
これも、「報」です。
「因果」が直接的な結びつきであるのに対して、「報」は間接的な変化です。
そう考えると、私たちは常に知らない内に罪を積んでいるのかもしれません。
「報」によって罪が積み重なることを、「業(カルマ)」と言います。

業とは、自らが、もしくは先祖やご縁ある人間により、間接的な罪の積み重ねです。
それを解消するには…
縁がある無しに関わらず、すべての命に優しさを向けていくことです。

人生という、魂の旅は果てしなく続きます。
その中で、私たちはどれだけ多くの方に優しく生きることができるでしょうか。

これからが、本番ですね。
今日も、皆様の最善最良をお祈りしています。











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2015年05月22日
御開帳で話題を集めている長野県の善光寺とは、いったいどのようなお寺なのでしょうか?
それは、「一光三尊如来像」が祭られている、あらゆる宗派に属さないお寺です。
そのため、宗教を選ばずに受け入れるので、世界中から人が訪れます。
「一生に一度は、善光寺詣り」と、古くから言われるように、万人が訪れます。
なかでも、神社仏閣は女人禁制と言われていた江戸時代では、「女人救済のお寺」とも言われていました。

一光三尊阿弥陀如来とは、阿弥陀如来そのものの御力に溢れた、命の宿っている仏像です。
2500年前のインドのビシャリ国には、ガッカイ長者という者がいました。
当時、疫病が蔓延した際に、娘のルリ姫の病を治すため、お釈迦様からの教えにより、ガッカイ長者は一心に阿弥陀如来にお祈りをしました。
そうして降臨した阿弥陀如来の光によって、ルリ姫の病と国の疫病が消えました。
その際に、阿弥陀如来自らの御力を乗り移らせたのが「一光三尊阿弥陀如来像」です。
それはまさに、「魂の癒し」のための像です。
魂の癒しとは、病を癒し、命を救うこと。
亡くなった際に極楽浄土へ導いてくれるということ。
そして、もうすでに亡くなっているご先祖さまや水子らの御供養をしてくれるということです。

それが時を経て、インドのガッカイ長者から、百済の聖明王へ、そして日本の本田善光へと、縁によって結ばれてきました。
その後に、本田善光の故郷である「長野県」に、一光阿弥陀如来像が祭られるようになりました。

それから1500年間、阿弥陀如来像は「庶民救済」「女人救済」「先祖供養」「魂の救い」をテーマに、多くの人々に御光を与えてきました。
この如来像は、絶対秘仏と呼ばれており、基本的には人々の前に姿を見せません。
しかし、7年に一度だけ、そのレプリカが公衆の面前に現れるのが「御開帳」です。

そして、阿弥陀如来の右手に結ばれた「善の綱」は、境内の「迎光柱」へとつながっています。
この迎光柱に触れるということは、「阿弥陀如来と指切りげんまん」の意味があるということです。

2015年05月11日
こんばんは。
ゴールデンウィークが明けて、春から一気に夏へと移行したような陽気になりましたね。
いかがお過ごしでしょうか?
私たちは、5月3日~4日と5日~6日の二回に渡り、善光寺に会社の仲間の皆様と共にご参拝ツアーに行ってまいりました。
今回は、5月3日~4日のご参拝でのお話をさせていただきます。

四日市からと京都から、2台のバスが出ました。
四日市のバスには男性の方々も多く見えましたので、行きのバスの中ではたくさん語り合いました。
善光寺のことについて、人生について、色々とお話ができることはとても気付きがいただけて有難いですね。
お昼過ぎに到着すると、もう善光寺はたくさんの観光客の方がお集まりでした。
56日間で、約600万人が訪れると言われているだけあります。
特に、ゴールデンウィークの中日であるこの日は、18万人近く訪れていたそうです。
皆様は、色々と町を探索にお出かけになったようですが、僕は一人で本堂へお参りをし、その後は宿坊にてゆっくりさせていただきました。

夕方になると、京阪神グループのバスも到着です。
全員が揃うと、宿坊「渕の坊さん」にてご供養とご祈願のお話です。

善光寺には、「一光三尊阿弥陀如来像」というご本尊がいます。
それは、亡くなった方や、いま生きている私たちの魂を癒す仏様です。
善光寺でご供養と御祈願をするということは、生きている私たちを救うと共に、亡くなっているご先祖様やご縁のある方々を救うことができると言うことです。

その後、渕の坊さんで大人気の精進料理をいただきます。
精進料理をいただくということは、お祈りをする前に体を清めておくということです。
肉や魚を食べていると、吐く息が生臭くなり、仏様が近づけなくなります。
ですから、血肉を食べた後の生臭い息でお祈りをしていても意味が無いので、そういうお坊様を「生臭坊主」と言います。
そんなお話をしていましたら、とある方から「加齢臭は大丈夫なのでしょうか?」
というご質問がございました。
「仏様もそれなりのご年齢を積み重ねている方々でしょうから、きっと大丈夫ですよ」と、お隣の方がお応えされていました。

翌朝は、目玉である「御開帳」と「御朝事」という法要があります。
集合が朝4時であるために、すぐに就寝しました。

翌朝は、凛とした肌寒さと、透き通った空気に包まれて、夜明け前の闇が私たちを迎えてくれます。
朝の四時だというのに、本堂の前にはもう行列ができていました。
そして、本堂の前の列の中の私たちの周辺だけを、風が包んでいます。
それは、御力が、降りてきていることを意味しています。
善光寺だけでなく、伊勢神宮などでも、御力が降りていると風により布がなびくと言われています。
他の木々や昇りは揺れていないのに、私たちの周りだけを風が包んでくれています。

そして、朝5時半になるといよいよ「御開帳」の始まりです。

ここまで書かせていただいて、やっと気付いたのですが「御開帳」とは何かを書かないと、お読みの方に通じにくいように思いました。

そこで、次回はまず「御開帳」とは何かというお話をさせていただきたいと思います。

南無阿弥陀仏。







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2015年04月22日
「赦す」と「許す」は、少し違います。
許すは、「良いですよ。」という、許可を意味します。
それに対し、赦すは、罪を赦すということを意味しています。

「相手がこうしてくれたら、その罪を赦してあげるわ。」
というのは、赦しているのではなく、罪に執行猶予を与えているだけです。
「今は赦すけど、同じことをしたら赦さないわ。」
というのも、同じように執行猶予の求刑をしているのと同じです。
本当に赦すということは、過去と未来と現在の、すべてにおいて赦すということです。

どうすれば、私たちは罪を赦すことができるでしょうか?

赦すの定義は、「共犯を認める。」です。
あなたが私を傷つけたのは、私にも原因があります。
だとすれば、私は共犯者です。
共犯者が、相手を裁くことはできません。
「赦さざるを、得ないのです。」
どこかの国で、誰かが誰かを傷つけました。
私たちも、廻りまわっての、共犯者かも知れません。
裁くことはできないのです。

国と国が、人と人が、誰もが誰かを、裁くことはできないと気付いたら、もう少し居心地のいい世界になるかもしれないですね。

私たちは、「赦さざるを得ない。」中で生きていて、
誰もが、「裁かれざる者」なのです。







2015年04月13日
定義は、解釈とは違います。
どこであっても、誰であっても、通用する、普遍的なものが定義です。
数学が真実と言われるのは、変わらない定義であるからです。

世界平和には、定義があります。
「自分を愛すること。
他を愛すること。
世界を愛すること。」

世界中の人がそう想えたら、本当に素晴らしいことですね。
でも、私たち一人一人からまずは想えるのなら、それも同じように素晴らしいことです。

朝起きたら、こんなふうに唱えてみましょう。
「私は、自らの幸せを祈ります。
私は、他の全ての存在の幸せを祈ります。
私は、世界の幸せを祈ります。」

眠る前には、こんなふうに唱えてみましょう。
「私は、自らを愛します。
私は、他の全ての存在を愛します。
私は、世界を愛します。」

たった数秒で出来る、この言葉を唱えてみると、きっと素敵なことが起こります。
よかったら、やってみてくださいませ。






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2015年03月28日
三月は、大好きです。
少しずつ温かくなってきて、心と体が目覚めてくるような気がします。
四月は、大好きです。
桜が咲いて散り、何か新しいことが起こる予感でいっぱいです。
五月は、大好きです。
模様替えをして、今にも走りだしそうなわくわくに包まれます。
六月は、大好きです。
陽射しを雲が包んでくれて、少し立ち止まって自分を見つめたくなります。
七月は、大好きです。
青葉に囲まれて、自然の生命力にあふれています。
八月は、大好きです。
朝から晩までの蝉しぐれと、夜の深さに心が湧きます。
九月は、大好きです。
夏の暑さがやわらいで、少し自然の風を感じたくなります。
十月は、大好きです。
読書や運動や食欲や、何をやってもはかどるような陽気に恵まれます。
十一月は、大好きです。
夕暮れが早まり、海や空や枯草や、何気ないものの美しさに目が向いてしまします。
十二月は、大好きです。
年の瀬のあわただしさと、一年を振り返るうきうきがあります。
一月は、大好きです。
一年の始まりの凛とした感じと、これからの自分の目標を意識します。
二月は、大好きです。
寒さと温かさの予感とが交互にあり、内側を見つめ外側への期待が高まります。

一年中、僕らは季節という奇跡の中にいます。





























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2015年03月14日
昔々、あるところに、孤独の神様がいました。
彼は、自分以外のものの幸せを願い続けていました。
ある頃から、彼には不思議な力が宿りました。
それは、人の願い事を叶えるという力でした。

孤独の神様は、その力を手に入れてからはもう、毎日喜んで人の願い事を叶えていました。
「私は、自分の願いがありません。
あなたの願い事を一つ、叶えることができます。」
「では、私の病を治してください。」
するとたちまち、願いをした者の病は癒されました。
次の日も、神様のもとに人が訪れます。
神様は言います。
「私は、自分の願いがありません。
あなたの願い事を一つ、叶えることができます。」
「では、私が失ってしまった人間関係を戻してください。」
しばらくすると、彼には失ってしまった人間関係以上の人々が集まりだしました。
ある者は、「私に、財を与えて下さい。」
ある者は、「私は、家族をつくりたい。」
ある者は、「私を、美しくしてほしい。」
願い事をした者たちはみな、それが叶って喜びました。

ある時、ある親子が神様のもとに現れました。
神様が言いました。
「私は、自分の願いがありません。
あなたの願い事を一つ、叶えることができます。」
先に、娘が願いを言いました。
「私の願いは、世界平和です。どうか、世界を平和にしてください。」
次に、母親が願いを言いました。
「私の願いは、神様が幸せでいることです。
神様が幸せでいられますように、その願いを叶えてください。」
それ以来、少しずつ世界は平和になりました。
日々の日常では気付きにくいくらいの、ゆっくりの歩みで世界は平和になりました。
そして、それ以来、神様は幸せになりました。

神様は、それまでも人の幸せを願うことで幸せを感じていました。
しかし、他人から幸せを願われることで、ますます幸せになることができました。
そしてまた、その親子も幸せになりました。
世界が平和であることを、喜べるからです。
神様が喜んでいる姿を、見ることができるからです。

幸せには、人それぞれのいろいろな幸せがあります。
しかし、その本質には、3つの種類があります。
1. 他人から、「幸せ」だと思われる幸せ。
地位や名誉を得ることで、他人から幸せなんだろうと認めてもらう幸せです。
2. 他人から、「幸せ」を願われる幸せ。
無条件で、自分の幸せを願ってくれる人がいる幸せです。
3. 他人の、「幸せ」を願う幸せ。
無条件で、誰かの幸せを願える幸せです。

だから、世界の平和は実現するのです。
もう、世界は平和になり始めているのです。











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2015年03月11日
翠と書いて、「みどり」と読みます。
汚れのない青みどりのような色を指します。
翡翠の「翠」は、まさにこの色のことです。

空と自然の植物たち。
そこを飛び回る鳥が、自らを守る意味で翠色に染まっていきました。
翡翠は、元々は鳥の羽根の意味していました。
それと同じように輝く石は、不思議な意味とパワーを持っていました。

自然と共鳴している。
だから、翡翠を身に付ける者は天気をも操られると、昔の人は信じていました。
今でも翡翠を持つことは、心を落ち着かせ、その人がその人らしく、自然体でいられるパワーがあります。

良かったら、美しい「翠色」の翡翠を身に付けてみませんか?
自然体の自分自身が、みなぎってくるかもしれませんよ。







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2015年03月01日
例えばミロのビーナスは、両腕が無いことで永遠の美を完成させました。
見えないからこそ、見ているものが想像を膨らませる。
それは、言葉が少ないからこそふくらみが生まれる俳句にも似ています。
僕らの生活には、案外そういうものが多くあります。
わからないからこそ、考える。
考えるからこそ、真実に近づける。
近づけても、近づけても、永遠に探し続ける。
それが、答えだったりします。

僕は、スマートフォンやパソコンは、子供には必要ないと思っています。
それが溢れている今の時代は、かえって不幸だとも考えている。
それらは、答えがすぐに却って来ます。
コンピュータは、ボタンを押せばすぐに教えてくれるから。
でも本当は、問いを伝えても、答えが返ってこないような人間模様。
そんな中で、学んでいく「想像力」があります。
百人一首なんかは、その典型ですよね?
「今、相手は何を考えているのかな…」
「困っていたりしないかな?」
「あの時の言葉は、どう受け取られたかな…」
一人で悶々と考え続けること。
心は、コロコロ変わるから、「こころ」です。

コンピュータの画面の向こうには、情報がこれでもかってほどに渦巻いています。
「知っているけど、わからない。」
そんな世界が広がっている。
例えば、ゲームの中で人を殺しても、リセットボタンを押せばまた生き返る。
でも、一度失った命が生き返ることは、絶対にありません。
それに、人間の心にはわからないことが多い。
自分の心ですら、わからないことが多いでしょ?
僕らは、わからないことがあるから、苦悩する特権があります。
思い通りに行かないから、考える才能があります。

だから、完璧なんです。
ダメでみっともなくて、どうしようもない…
そんな中に、人間としての完成があるのかも知れませんね。
だから、未完成なことに、胸を張ってやってくださいね。






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