心と肉体と。
こんにちは。
いつもお世話になりまして、誠にありがとうございます。
小澤頼仁です。
今日もとりとめの無いお話ですが、健康についてのお話をさせていただきます。
僕が伝えたいことは一言では伝わらないことなので、良かったらじっくり聞いてやってください。
僕が健康の有り難さを感じたのは、大学生の頃でした。
当時、東京では人と付き合うのが苦手で、今で言う引きこもりのような状態にさえなっていました。
生きる意味を探すことをしている中で、周りの大学生は遊ぶことや楽しいことを求めている。
何だか違うなって思い、人と話すことが苦手になっていきました。
ある時、風邪を引いて、部屋を一歩も出られないほどな状態の時、そのまま三日間くらい布団で寝ていました。
食べるものは、玄米を炊いて食べるくらい。
今のように、携帯電話も無い時代。
部屋には、通常の電話もテレビも無かった。
そんな時、やることも無いから昔のことを思い出していって、一年、二年、三年、十年、と遡っていったら、生まれた瞬間までを思い出しました。
当時は、「何年何月の何日は何をしていた?」と聞かれたら、幼少期であってもすべてを答えられたくらいです。
さて、そうなると心は生きることを望まなくなっていきました。
どうせ、人と関わるのが苦痛なのだとしたら、生きている意味も無いのだと。
だから僕は、引きこもる方や、心の病を持つ方の気持ちもよくわかります。
最近、社会では50代の引きこもりの方と親の介護の問題が話題となっていますが、その方が悪いわけでも、その方の家族が悪いわけでもありません。
結局、社会そのものが病んでいるんです。
今の社会は、「持っていること」「していること」「肩書き」などに価値を見るので、「持っていないこと」「していないこと」には、価値を見いだされません。
すると、弱い人たち、繊細な人たち、何も無くても何もしないでも幸せだと思える人たちほど、存在価値を疑われてしまいます。
だから、僕はそんな価値観の世の中を変えていくことも、必ずいずれはしなければと感じています。
もちろん、解決するには、当事者にしかできないこともあります。
当事者が動かない限り、結局は何も変わらないから。
でも、心の病を無くすには、社会全体が変わらないといけない。
どう変わるのか?
「生きてゆく意味」
「生かされている喜び」
「何も無くても幸せであること」
そんなことを、社会全体が共有できるようになれたら良いですよね。
今の資本主義一辺倒では、なかなか難しいのですが。
僕が、そんな中で心を病んでいた時、救われたのは肉体でした。
心は生きることを望まなくても、肉体は生きようと欲している。
何もやる気が起きなくて寝たきりでいても、いつかは体の声が聞こえてきます。
肉体が元気だから、朝起きても食欲はあり、体を動かしたくなる。
肉体は清らかだから、結局はプラス思考へと切り替わっている。
当時は、自分自身の内在する宇宙への問いかけをたくさんし、するとやがてそれは集合意識に辿り着き、世界中の人々の心を読み取れるような感じでした。
だから、学生の頃の教職課程で「ユング心理学」を学んだ時、彼の気持ちや考えが痛いほどに理解できました。
肉体が元気であった理由は、僕が毎日水素水をたくさん飲んでいたからと思います。
当時はアルカリイオン水という名前でしたが、2000年代に入り、それらも水素水として扱われるようになりました。
そのおかげで、どんなに心が病んでも、肉体が心を励まし、結局どんな闇に襲われても、すべてに意味を見いだせるようになったんです。
悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、寂しいこと、それらが問題ではありません。
それらにも、意味が見いだせたらそれは、幸せなことなんです。
人間も同じです。
良い人、悪い人、怒る人、優しい人、それらが問題では無く、どんな人にも意味と役割があるのだと思えることが大切なのです。
「衣食足りて、礼節を知る。」
と、人は言います。
でも大切なことは、「足るを知る。」ですね。
肉体が元気であれば、何も無くても幸せと気付けることです。
それは、病気であるかどうかと言う問題では無く、肉体が生きることを望んでいることを、本当の意味での健康と言います。
あれから20年-。
今、僕は本当の健康をさらに理解できるようになりました。
色んなエネルギーを読み取ることも、できるようになりました。
「心」と「体」と「魂」と、すべての健康とは何か?
今では、しっかりと理解できます。
あとはもう、実現するための実践をするだけです。
そのために、今は生きています。
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いつもお世話になりまして、誠にありがとうございます。
小澤頼仁です。
今日もとりとめの無いお話ですが、健康についてのお話をさせていただきます。
僕が伝えたいことは一言では伝わらないことなので、良かったらじっくり聞いてやってください。
僕が健康の有り難さを感じたのは、大学生の頃でした。
当時、東京では人と付き合うのが苦手で、今で言う引きこもりのような状態にさえなっていました。
生きる意味を探すことをしている中で、周りの大学生は遊ぶことや楽しいことを求めている。
何だか違うなって思い、人と話すことが苦手になっていきました。
ある時、風邪を引いて、部屋を一歩も出られないほどな状態の時、そのまま三日間くらい布団で寝ていました。
食べるものは、玄米を炊いて食べるくらい。
今のように、携帯電話も無い時代。
部屋には、通常の電話もテレビも無かった。
そんな時、やることも無いから昔のことを思い出していって、一年、二年、三年、十年、と遡っていったら、生まれた瞬間までを思い出しました。
当時は、「何年何月の何日は何をしていた?」と聞かれたら、幼少期であってもすべてを答えられたくらいです。
さて、そうなると心は生きることを望まなくなっていきました。
どうせ、人と関わるのが苦痛なのだとしたら、生きている意味も無いのだと。
だから僕は、引きこもる方や、心の病を持つ方の気持ちもよくわかります。
最近、社会では50代の引きこもりの方と親の介護の問題が話題となっていますが、その方が悪いわけでも、その方の家族が悪いわけでもありません。
結局、社会そのものが病んでいるんです。
今の社会は、「持っていること」「していること」「肩書き」などに価値を見るので、「持っていないこと」「していないこと」には、価値を見いだされません。
すると、弱い人たち、繊細な人たち、何も無くても何もしないでも幸せだと思える人たちほど、存在価値を疑われてしまいます。
だから、僕はそんな価値観の世の中を変えていくことも、必ずいずれはしなければと感じています。
もちろん、解決するには、当事者にしかできないこともあります。
当事者が動かない限り、結局は何も変わらないから。
でも、心の病を無くすには、社会全体が変わらないといけない。
どう変わるのか?
「生きてゆく意味」
「生かされている喜び」
「何も無くても幸せであること」
そんなことを、社会全体が共有できるようになれたら良いですよね。
今の資本主義一辺倒では、なかなか難しいのですが。
僕が、そんな中で心を病んでいた時、救われたのは肉体でした。
心は生きることを望まなくても、肉体は生きようと欲している。
何もやる気が起きなくて寝たきりでいても、いつかは体の声が聞こえてきます。
肉体が元気だから、朝起きても食欲はあり、体を動かしたくなる。
肉体は清らかだから、結局はプラス思考へと切り替わっている。
当時は、自分自身の内在する宇宙への問いかけをたくさんし、するとやがてそれは集合意識に辿り着き、世界中の人々の心を読み取れるような感じでした。
だから、学生の頃の教職課程で「ユング心理学」を学んだ時、彼の気持ちや考えが痛いほどに理解できました。
肉体が元気であった理由は、僕が毎日水素水をたくさん飲んでいたからと思います。
当時はアルカリイオン水という名前でしたが、2000年代に入り、それらも水素水として扱われるようになりました。
そのおかげで、どんなに心が病んでも、肉体が心を励まし、結局どんな闇に襲われても、すべてに意味を見いだせるようになったんです。
悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、寂しいこと、それらが問題ではありません。
それらにも、意味が見いだせたらそれは、幸せなことなんです。
人間も同じです。
良い人、悪い人、怒る人、優しい人、それらが問題では無く、どんな人にも意味と役割があるのだと思えることが大切なのです。
「衣食足りて、礼節を知る。」
と、人は言います。
でも大切なことは、「足るを知る。」ですね。
肉体が元気であれば、何も無くても幸せと気付けることです。
それは、病気であるかどうかと言う問題では無く、肉体が生きることを望んでいることを、本当の意味での健康と言います。
あれから20年-。
今、僕は本当の健康をさらに理解できるようになりました。
色んなエネルギーを読み取ることも、できるようになりました。
「心」と「体」と「魂」と、すべての健康とは何か?
今では、しっかりと理解できます。
あとはもう、実現するための実践をするだけです。
そのために、今は生きています。
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