善光寺での法話
いつもお世話になりまして、誠にありがとうございます。
ジェンティの善光寺ツアーでは、老祖様による有り難い御法話があります。
ジェンティの会員様がされているブログにて、過去の御法話について記されているものがありました。
とっても言いお話でしたので、こちらでご紹介させていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏…。
※私は宗教家ではありませんが、尊いことは皆さまにお知らせさせていただきたいと思っております。
↓↓↓↓↓
善光寺詣りの時に、淵之坊の老祖さまの法話をいただきました。
わかりやすく、ユーモアもあって、とても心に染み入ってきました。
染色をされている人間国宝の志村ふくみさん。
90歳ぐらいの人だが、すごい人。
植物からとったのでもって染色する。
それを物凄く美しい着物に仕上げるが、エピソードが一つある。
一度、桜のあのピンクの色を美しく着物に染めてみたいと思いました。
それで何十回となくあのピンクの花を山ほど持って来て、つぼみから咲いたのから全部集めて、煮立てて、灰汁を入れて、沈ませて、そこに白い布を入れて染めました。
何十回やってもピンクの色が出て来ない。茶色になっちゃうんです。あの幹の色のような。
さすがの志村ふくみさんも、なぜあの桜の色が染まらないんだろうと何度悩んだことだったんでしょう。
そうしたら、ある日、滋賀県から電話があって、桜の老木が道路の工事でもって切られてしまいますので、良かったら差し上げますという電話をいただいて、トラックでもらいに行って、幹のまんまの桜を切ったのをトラックに乗せてもらってきた。
今までは花ばっかりずっとやっていたが、今回花はないけど幹をもらってきて、ふと思いついていっぱんやってみるかと皮と幹の間をとって煮出した。
そして灰汁を入れて沈ませて白い布を入れていったら、なんとそこからピンクが生まれた。
面白いね。
桜も実は、あの花が爛漫と咲いてあのピンクの美しい花と香りを出すその花はもう抜け殻なんですよ。
その花を咲くために、桜は1年間かけてあの幹の中であの生を育ててきているんですね。
それがいっぺんにその桜の生が、さ~っと出るのは花なんですね。
私たちの生きることも一生懸命に、咲いた花を見てどうこう言ってももう終わり。遅い。
それよりも、花を咲かせるために、いかなる努力をしたか。
どうやって花の咲けるような生き方をしたろうかということを考えてみると、またね、いいんじゃないかな。
皆さん方の中にお茶をやる方がいらっしゃるの?
お茶の言葉の中に有名なのが「一期一会」
一期というのは一生という意味ですね。
そして一会は、一つ会う。
これは、一生に一度会うというつもりで、お茶をおたてになって、お客様に一服のお茶をたててあげなさい。
一生に一度しか会えないと思ってこのお茶をたてなさい。
というのが一期一会で、これは彦根藩の井伊直弼が残した言葉ですが、有名な言葉でしょ。
ところがね、私はその違う意味の言葉を教わりました。
それはね、「一会一期」という言葉。
これはどういうことかというとね、私の先生で、松原泰道(たいどう)という人。
日本の南無の会の会長をやっていた人。
東京から90歳になっても一人で講演に来た。
えらいもんだな、奥さんついて来ず、介添え一人もいない。
その人が、うちでお話をしてくださっていた時に、私はこういうことを経験しました。それは私が同じお寺で弟子として修業している時に、一緒に修行していたお仲間の一人。
仲のいい人だったんです。
その方が、先生がちょうど80くらいだったんでしょうかね、そのお友達が岡山に住んでいる方だった。
岡山から連絡があって、山の山のお寺の臨済宗のお寺のお坊さんだったんですね。
そうしたら、危篤になりましたというお電話をちょうだいしたんです。
それで松原先生は、講演いろいろあったのを終わって都合つけて、岡山まで行って、そしてご友人のお寺へ入ったら既にお香の匂いがしてきていました。
あぁ、もう間に合わなかった。
上がって、横たわっているご自分の友人の枕元に行って、お経を読みながらご回向をして、そしてお参りをした後、あぁあぁとうとうあなたとも別れるんだなぁというところへお弟子さんの一人が「先生、ご老師さま、今日はご苦労様、ありがとうございました。実はちょっと見てもらいたいものがあるんでございます。
あぁ、そう。そして部屋を変えて行ったら、先生、これが亡くなったご老師が、亡くなる前に書いた字が、ここに残ってるんです。便箋に残っているんですが、おかしいんです。
何がおかしいんですかと言ったら、一期一会じゃない、一会一期と書いてあるんです。
一度会う。それが一生だ。
という風に書いてあるんです。
そしたらお弟子さんが、先生これは、老師がご病気のなかでもって勘違いをして、こういう風に一期一会と書くべきことを、一会一期と間違えて書いたんでしょうかね?と、先生に言ったんですね。
先生もそう言われてみて一生懸命その書いてある便箋のところに、書いてある字がちょっと乱れているけれども、どう見ても一会一期としか読めない。
あぁ、これは、けして病気の錯乱の中で間違えたものではなかろう。
わざわざ一会一期と書いたに相違ない。
そこで、お弟子さんをつかまえて、あなたはどう思いますか?
一期一会という言葉はお茶の言葉で有名だけど、お茶の言葉として以外でも一期一会という言葉は、一生に一度会うということの大切さ。ご縁の大切さ。ていうものを残した言葉だよね。
だけれども、一会一期となると、意味が変わってきますね。
そこなんですよ。
一度巡り会ったことが、私の一生だ。
っていう言葉になるでしょう。
一度巡り会ったことが、そのお蔭で、私の一生があるんだ。
っていう風に取れるじゃないですか。
そこなんだよね。
それを私が教わった時に、あぁ良いことを教えてもらった。
私は善光寺の仏様のおひざ元で生まれて、ここで間もなく死んでいきますけども、
ここで命をいただいて、善光寺の仏様に会ったことが私の一生なんです。
それで、皆様方も実は善光寺の如来様にお目にかかってお会いになったことが、あなたの人生の柱になってもらいたい。
あなた方のお心の中に、善光寺の如来様のお慈悲の心が、光がずっと入っていって、そして皆様方のご生活の中に、その慈悲の心の生きた生活をしていただければ、それが一会一期だと私には思えるのでありますね。
慈悲という言葉は、大きな大きな心のことをもうしますが、慈悲の慈っていうのは、人の喜びを我が喜びと思うことのできる心であります。
人間はね、可哀想な私どもは、どうしても人間てのは欲望の世界でにありますから、人の喜びを見ると人の喜びを本当に心から喜ぶって難しいんですよ。
ちょいと喜んだから、おめでとうと言ってるけどその裏じゃ何であんなのが何か良いことあって、俺んとこにゃ何にもないのにあればっかりなんでそんな良いことあって、あれろくなことないぞ。なんて余計な事言って。
人間は、妬みの心っていうのはどんな人でもある。
ある。これはしょうがない。
そしてですね。その妬みの心をなるべく少なくすることなんですね。
少なくしていくことで、人の喜びを我が喜びと思うことができる心が慈悲の慈。
悲しみの悲っていう方は、人の悲しみが私の悲しみと思えるようになることが悲なんです。
ですから、人の喜び悲しみを我がことの如く感じて、そしてその方のためにできることをしてあげる。
それが慈悲ですね。
私たち人間のできる慈悲ですよ。
仏様の慈悲は、そんなもんじゃないんですよ。
まぁ大きな世界中みんな照らしているんです。
でも、今回また東北であって5年目でまた熊本で大惨事が起きましたね。
人間のシャバってのは、いつそういうものに悲しみに巡り会うかわからない。
本当に一寸先がわからないからこそ、怖がるんじゃなくて、今いただいてきた仏様からいただいてきたこの心を大切に、今を一生懸命生きる。
明日地震来るかなぁ?明後日来るかなぁ?ひょっとすると一週間後かな?この頃占いの本見たら・・・なんてよくそういうので誤魔化されてですね、あと一週間後に地震来るかなぁって言われて、それで具合悪くなっちゃったらどうしますか?
そんなもんじゃないんですよ。
いつ来るかわからなくていい。
わからないからこそいい。
だって人間の私たちの寿命が来るなんて、いつ来るかわからないでしょ。
この定期預金はいづれも満期になるんですよ。必ず満期になるんですよ。
ならない満期は一つもない。
いつになるか銀行の預金なら日にちが入っているけど、命の方は日にち入ってないでしょ。
世の中にはまぁ取り越し苦労の人がいてね。
自分で御健康なのにも関わらず、占いの先生の所に行ってみてもらって、そしたら占いの先生が、あなたはあと半年で危ないと言われ、具合の悪くない人が半年たったら死んじゃったじゃ困るじゃないですか。
自分で具合悪くなって、そんなもんじゃなくて、じゃあどうするのか?
時は、今なんですよ。
今を一生懸命生きることが、永遠の命に繋がるんです。
それを詠った詩(うた)があります。
「時は今 ところ足元そのことに 打ち込む命 永遠(とわ)のみ生命(みいのち)」
どういうことですか?
余計な事心配しなくていいから、今やるべきことを本当に一生懸命やりなさい。
そのことに打ち込んでいくことが、あなたの命が永遠の仏様の世界に繋がっていくんだっていう詩ですね。
これは詩を勉強っていう私の恩師の先生がお作りになった詩でございますが、皆さん方、いつも昨日のことを憂いるんじゃない。明日のことを不安に思うんじゃない。
どうか与えられた今の時間を、如来様にいただいているのが今なんですから、今の時間をしっかり生きる。
そのしっかり生きることの命の繋がりが生きていくですね。
どうか皆さん方も、今日はいいお詣りができて、こんな幸せなことはございません。
どうぞこれからも、お気をつけていただいて、体もそうですよ。
いいですか。明日腰痛くなったらどうしようなんて、痛くならないうちに腰痛くしたらダメですよ。
今一生懸命。
歩ける人は歩く。
今日重い荷物をいっぱい持っている人もいるけど、重いのしょうがないかもだけどしっかり持って行く。
そしてその一時一時を明るく生きていきましょう。
明るく。
そして、どうかご自分のことと同時に人のことも大切にして、みんなでご家族が揃ったり、お友達が揃って、一緒に明るく生きていく。
それができることがどんなに嬉しいことでしょうか。
皆さん同じ。良いお顔してる。
今日のあなた方のお顔は天下一品。
ほんとうに良いお顔しているね。
じゃあね、最後にね、10ぺんのお念仏を一緒にお唱えしてお別れにすることにしましょうね。
南無阿弥陀仏・・・・・・・・。
ありがとうございました。
ジェンティの善光寺ツアーでは、老祖様による有り難い御法話があります。
ジェンティの会員様がされているブログにて、過去の御法話について記されているものがありました。
とっても言いお話でしたので、こちらでご紹介させていただきたいと思います。
南無阿弥陀仏…。
※私は宗教家ではありませんが、尊いことは皆さまにお知らせさせていただきたいと思っております。
↓↓↓↓↓
善光寺詣りの時に、淵之坊の老祖さまの法話をいただきました。
わかりやすく、ユーモアもあって、とても心に染み入ってきました。
染色をされている人間国宝の志村ふくみさん。
90歳ぐらいの人だが、すごい人。
植物からとったのでもって染色する。
それを物凄く美しい着物に仕上げるが、エピソードが一つある。
一度、桜のあのピンクの色を美しく着物に染めてみたいと思いました。
それで何十回となくあのピンクの花を山ほど持って来て、つぼみから咲いたのから全部集めて、煮立てて、灰汁を入れて、沈ませて、そこに白い布を入れて染めました。
何十回やってもピンクの色が出て来ない。茶色になっちゃうんです。あの幹の色のような。
さすがの志村ふくみさんも、なぜあの桜の色が染まらないんだろうと何度悩んだことだったんでしょう。
そうしたら、ある日、滋賀県から電話があって、桜の老木が道路の工事でもって切られてしまいますので、良かったら差し上げますという電話をいただいて、トラックでもらいに行って、幹のまんまの桜を切ったのをトラックに乗せてもらってきた。
今までは花ばっかりずっとやっていたが、今回花はないけど幹をもらってきて、ふと思いついていっぱんやってみるかと皮と幹の間をとって煮出した。
そして灰汁を入れて沈ませて白い布を入れていったら、なんとそこからピンクが生まれた。
面白いね。
桜も実は、あの花が爛漫と咲いてあのピンクの美しい花と香りを出すその花はもう抜け殻なんですよ。
その花を咲くために、桜は1年間かけてあの幹の中であの生を育ててきているんですね。
それがいっぺんにその桜の生が、さ~っと出るのは花なんですね。
私たちの生きることも一生懸命に、咲いた花を見てどうこう言ってももう終わり。遅い。
それよりも、花を咲かせるために、いかなる努力をしたか。
どうやって花の咲けるような生き方をしたろうかということを考えてみると、またね、いいんじゃないかな。
皆さん方の中にお茶をやる方がいらっしゃるの?
お茶の言葉の中に有名なのが「一期一会」
一期というのは一生という意味ですね。
そして一会は、一つ会う。
これは、一生に一度会うというつもりで、お茶をおたてになって、お客様に一服のお茶をたててあげなさい。
一生に一度しか会えないと思ってこのお茶をたてなさい。
というのが一期一会で、これは彦根藩の井伊直弼が残した言葉ですが、有名な言葉でしょ。
ところがね、私はその違う意味の言葉を教わりました。
それはね、「一会一期」という言葉。
これはどういうことかというとね、私の先生で、松原泰道(たいどう)という人。
日本の南無の会の会長をやっていた人。
東京から90歳になっても一人で講演に来た。
えらいもんだな、奥さんついて来ず、介添え一人もいない。
その人が、うちでお話をしてくださっていた時に、私はこういうことを経験しました。それは私が同じお寺で弟子として修業している時に、一緒に修行していたお仲間の一人。
仲のいい人だったんです。
その方が、先生がちょうど80くらいだったんでしょうかね、そのお友達が岡山に住んでいる方だった。
岡山から連絡があって、山の山のお寺の臨済宗のお寺のお坊さんだったんですね。
そうしたら、危篤になりましたというお電話をちょうだいしたんです。
それで松原先生は、講演いろいろあったのを終わって都合つけて、岡山まで行って、そしてご友人のお寺へ入ったら既にお香の匂いがしてきていました。
あぁ、もう間に合わなかった。
上がって、横たわっているご自分の友人の枕元に行って、お経を読みながらご回向をして、そしてお参りをした後、あぁあぁとうとうあなたとも別れるんだなぁというところへお弟子さんの一人が「先生、ご老師さま、今日はご苦労様、ありがとうございました。実はちょっと見てもらいたいものがあるんでございます。
あぁ、そう。そして部屋を変えて行ったら、先生、これが亡くなったご老師が、亡くなる前に書いた字が、ここに残ってるんです。便箋に残っているんですが、おかしいんです。
何がおかしいんですかと言ったら、一期一会じゃない、一会一期と書いてあるんです。
一度会う。それが一生だ。
という風に書いてあるんです。
そしたらお弟子さんが、先生これは、老師がご病気のなかでもって勘違いをして、こういう風に一期一会と書くべきことを、一会一期と間違えて書いたんでしょうかね?と、先生に言ったんですね。
先生もそう言われてみて一生懸命その書いてある便箋のところに、書いてある字がちょっと乱れているけれども、どう見ても一会一期としか読めない。
あぁ、これは、けして病気の錯乱の中で間違えたものではなかろう。
わざわざ一会一期と書いたに相違ない。
そこで、お弟子さんをつかまえて、あなたはどう思いますか?
一期一会という言葉はお茶の言葉で有名だけど、お茶の言葉として以外でも一期一会という言葉は、一生に一度会うということの大切さ。ご縁の大切さ。ていうものを残した言葉だよね。
だけれども、一会一期となると、意味が変わってきますね。
そこなんですよ。
一度巡り会ったことが、私の一生だ。
っていう言葉になるでしょう。
一度巡り会ったことが、そのお蔭で、私の一生があるんだ。
っていう風に取れるじゃないですか。
そこなんだよね。
それを私が教わった時に、あぁ良いことを教えてもらった。
私は善光寺の仏様のおひざ元で生まれて、ここで間もなく死んでいきますけども、
ここで命をいただいて、善光寺の仏様に会ったことが私の一生なんです。
それで、皆様方も実は善光寺の如来様にお目にかかってお会いになったことが、あなたの人生の柱になってもらいたい。
あなた方のお心の中に、善光寺の如来様のお慈悲の心が、光がずっと入っていって、そして皆様方のご生活の中に、その慈悲の心の生きた生活をしていただければ、それが一会一期だと私には思えるのでありますね。
慈悲という言葉は、大きな大きな心のことをもうしますが、慈悲の慈っていうのは、人の喜びを我が喜びと思うことのできる心であります。
人間はね、可哀想な私どもは、どうしても人間てのは欲望の世界でにありますから、人の喜びを見ると人の喜びを本当に心から喜ぶって難しいんですよ。
ちょいと喜んだから、おめでとうと言ってるけどその裏じゃ何であんなのが何か良いことあって、俺んとこにゃ何にもないのにあればっかりなんでそんな良いことあって、あれろくなことないぞ。なんて余計な事言って。
人間は、妬みの心っていうのはどんな人でもある。
ある。これはしょうがない。
そしてですね。その妬みの心をなるべく少なくすることなんですね。
少なくしていくことで、人の喜びを我が喜びと思うことができる心が慈悲の慈。
悲しみの悲っていう方は、人の悲しみが私の悲しみと思えるようになることが悲なんです。
ですから、人の喜び悲しみを我がことの如く感じて、そしてその方のためにできることをしてあげる。
それが慈悲ですね。
私たち人間のできる慈悲ですよ。
仏様の慈悲は、そんなもんじゃないんですよ。
まぁ大きな世界中みんな照らしているんです。
でも、今回また東北であって5年目でまた熊本で大惨事が起きましたね。
人間のシャバってのは、いつそういうものに悲しみに巡り会うかわからない。
本当に一寸先がわからないからこそ、怖がるんじゃなくて、今いただいてきた仏様からいただいてきたこの心を大切に、今を一生懸命生きる。
明日地震来るかなぁ?明後日来るかなぁ?ひょっとすると一週間後かな?この頃占いの本見たら・・・なんてよくそういうので誤魔化されてですね、あと一週間後に地震来るかなぁって言われて、それで具合悪くなっちゃったらどうしますか?
そんなもんじゃないんですよ。
いつ来るかわからなくていい。
わからないからこそいい。
だって人間の私たちの寿命が来るなんて、いつ来るかわからないでしょ。
この定期預金はいづれも満期になるんですよ。必ず満期になるんですよ。
ならない満期は一つもない。
いつになるか銀行の預金なら日にちが入っているけど、命の方は日にち入ってないでしょ。
世の中にはまぁ取り越し苦労の人がいてね。
自分で御健康なのにも関わらず、占いの先生の所に行ってみてもらって、そしたら占いの先生が、あなたはあと半年で危ないと言われ、具合の悪くない人が半年たったら死んじゃったじゃ困るじゃないですか。
自分で具合悪くなって、そんなもんじゃなくて、じゃあどうするのか?
時は、今なんですよ。
今を一生懸命生きることが、永遠の命に繋がるんです。
それを詠った詩(うた)があります。
「時は今 ところ足元そのことに 打ち込む命 永遠(とわ)のみ生命(みいのち)」
どういうことですか?
余計な事心配しなくていいから、今やるべきことを本当に一生懸命やりなさい。
そのことに打ち込んでいくことが、あなたの命が永遠の仏様の世界に繋がっていくんだっていう詩ですね。
これは詩を勉強っていう私の恩師の先生がお作りになった詩でございますが、皆さん方、いつも昨日のことを憂いるんじゃない。明日のことを不安に思うんじゃない。
どうか与えられた今の時間を、如来様にいただいているのが今なんですから、今の時間をしっかり生きる。
そのしっかり生きることの命の繋がりが生きていくですね。
どうか皆さん方も、今日はいいお詣りができて、こんな幸せなことはございません。
どうぞこれからも、お気をつけていただいて、体もそうですよ。
いいですか。明日腰痛くなったらどうしようなんて、痛くならないうちに腰痛くしたらダメですよ。
今一生懸命。
歩ける人は歩く。
今日重い荷物をいっぱい持っている人もいるけど、重いのしょうがないかもだけどしっかり持って行く。
そしてその一時一時を明るく生きていきましょう。
明るく。
そして、どうかご自分のことと同時に人のことも大切にして、みんなでご家族が揃ったり、お友達が揃って、一緒に明るく生きていく。
それができることがどんなに嬉しいことでしょうか。
皆さん同じ。良いお顔してる。
今日のあなた方のお顔は天下一品。
ほんとうに良いお顔しているね。
じゃあね、最後にね、10ぺんのお念仏を一緒にお唱えしてお別れにすることにしましょうね。
南無阿弥陀仏・・・・・・・・。
ありがとうございました。