父へ
今夜は、僕の父親のことを書こうと思います。
父は、2007年12月7日に亡くなりました。
最期まで、力強い父の姿は、僕にとっての最後の教育でした。
父のお話の前に、父の父である、僕の祖父のお話をさせていただきたいと思います。
祖父は、明治生まれです。
満州で会社を経営する、当時は一大経営者でした。
日本が戦争で敗れ、引き上げてきてからは、東京で裸1文で一から会社を立ち上げました。
戦後、まだ日本人が明日食べるものがない中で、祖父は東京の復興に専心しました。
日本の中心は今後、新宿になると定め、当時はまだ闇市だった新宿の開発を行います。
この話は、父が亡くなる数日前に、ベッドの上で聞いたものです。
当時、新宿は、2つの組のヤクザが仕切っていました。
祖父は、単身で2つの組事務所に行き、其々の組長と話をまとめます。
「新宿を日本の中心にするために、協力してほしい」
時の総理吉田茂は、祖父に最敬礼でした。
誰も成し遂げれなかった、新宿の一本化を、祖父が行いました。
その後も祖父は、自身の事業と東京の復興の2足のわらじに専心しました。
極度のストレスから、お酒が進みました。
お茶づけと言って、ご飯に日本酒を注ぎます。
焼酎に一滴の水をたらし、水割りと言って飲み干します。
若くして体を壊し、入院生活が始まります。
そして、入院中の1年間に、新宿図書館の本をすべて読み切ったという、読書家でもありました。
祖父は、日本の復興を願う有識者から惜しまれながら、56歳にして亡くなりました。
父は、そんな祖父の背中を見て育ちました。
祖父の痛み、悲しみ、弱さ、すべてを知っていたのが父です。
満州から引き揚げたのは、父が7歳の時です。
道中で、兄弟を2人、飢えで亡くしました。
我が家の食卓がカレーの夜は、父はよく兄弟の最後の言葉を話してくれました。
「お兄ちゃん、日本に帰ったらお腹いっぱい、カレーライスを食べようね」
それが、父の弟たちの最期のコトバでした。
父は、70歳を越えても、その時の記憶が鮮明に残っていました。
そして、何もできなかった自分を責めていました。
カレーを食べながら、目に涙を浮かべた父の姿を、僕は今でもよく覚えています。
父は、とても弱く、優しい人でした。
いつも、日本のことを想い、周りの人のことを想っていました。
父は、大家族主義で、近くにいる人を大切にしたがる人でした。
母は、生涯をかけて、そんな父を愛していました。
父だけを、生涯の愛の対象としてみていました。
母は、誰にも話さない苦しみや悲しみを背負い、父を慕って生きています。
今思えば僕は、そんな話を生まれた頃から、父の酔いどれながらに聞いていました。
父が弱くて優しかったように、僕も、父の背中を追いかけています。
僕もできるなら、弱くありたいです。
そしてできるなら、優しくなれたら嬉しいです。
父や祖父のように、誰かのために生きることができれば。
いつまでたっても、それが人生のテーマです。
PS
お父さん、ありがとうございます。
日記を書いていたら、泣いてしまいました。
何年振りだろう。
泣くって、とても気持ち良いものですね。
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父は、2007年12月7日に亡くなりました。
最期まで、力強い父の姿は、僕にとっての最後の教育でした。
父のお話の前に、父の父である、僕の祖父のお話をさせていただきたいと思います。
祖父は、明治生まれです。
満州で会社を経営する、当時は一大経営者でした。
日本が戦争で敗れ、引き上げてきてからは、東京で裸1文で一から会社を立ち上げました。
戦後、まだ日本人が明日食べるものがない中で、祖父は東京の復興に専心しました。
日本の中心は今後、新宿になると定め、当時はまだ闇市だった新宿の開発を行います。
この話は、父が亡くなる数日前に、ベッドの上で聞いたものです。
当時、新宿は、2つの組のヤクザが仕切っていました。
祖父は、単身で2つの組事務所に行き、其々の組長と話をまとめます。
「新宿を日本の中心にするために、協力してほしい」
時の総理吉田茂は、祖父に最敬礼でした。
誰も成し遂げれなかった、新宿の一本化を、祖父が行いました。
その後も祖父は、自身の事業と東京の復興の2足のわらじに専心しました。
極度のストレスから、お酒が進みました。
お茶づけと言って、ご飯に日本酒を注ぎます。
焼酎に一滴の水をたらし、水割りと言って飲み干します。
若くして体を壊し、入院生活が始まります。
そして、入院中の1年間に、新宿図書館の本をすべて読み切ったという、読書家でもありました。
祖父は、日本の復興を願う有識者から惜しまれながら、56歳にして亡くなりました。
父は、そんな祖父の背中を見て育ちました。
祖父の痛み、悲しみ、弱さ、すべてを知っていたのが父です。
満州から引き揚げたのは、父が7歳の時です。
道中で、兄弟を2人、飢えで亡くしました。
我が家の食卓がカレーの夜は、父はよく兄弟の最後の言葉を話してくれました。
「お兄ちゃん、日本に帰ったらお腹いっぱい、カレーライスを食べようね」
それが、父の弟たちの最期のコトバでした。
父は、70歳を越えても、その時の記憶が鮮明に残っていました。
そして、何もできなかった自分を責めていました。
カレーを食べながら、目に涙を浮かべた父の姿を、僕は今でもよく覚えています。
父は、とても弱く、優しい人でした。
いつも、日本のことを想い、周りの人のことを想っていました。
父は、大家族主義で、近くにいる人を大切にしたがる人でした。
母は、生涯をかけて、そんな父を愛していました。
父だけを、生涯の愛の対象としてみていました。
母は、誰にも話さない苦しみや悲しみを背負い、父を慕って生きています。
今思えば僕は、そんな話を生まれた頃から、父の酔いどれながらに聞いていました。
父が弱くて優しかったように、僕も、父の背中を追いかけています。
僕もできるなら、弱くありたいです。
そしてできるなら、優しくなれたら嬉しいです。
父や祖父のように、誰かのために生きることができれば。
いつまでたっても、それが人生のテーマです。
PS
お父さん、ありがとうございます。
日記を書いていたら、泣いてしまいました。
何年振りだろう。
泣くって、とても気持ち良いものですね。
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